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上海のオールドホテルを巡る その4
  

錦江賓館(2)
JinJiang Hotel


 左は錦江賓館の中楼だ。以前はGrosvenor公寓と呼ばれた。1934年にイギリス人によって建設された。典型的な近代アメリカの建築様式といわれている。戦時中は旧日本軍も司令部として使ったことがある。その後、外国人や中国人の文化人が多くすむマンションとして使われた。

 さて、錦江飯店について上海人に聞くと、Sassoon一族の話よりも、むしろその後にホテルを立ち上げていった女性、董竹君の立身出世の話は有名だ。仕事をバリバリこなす典型的な上海人女性と言われることもある。中国ではドラマがVCDとなって発売されている。
 董竹君は1900年生まれ、上海出身。父親は人力車をひいて生計を立てていた。しかし、彼女が13歳のときに父親が病気で倒れ、家庭は貧困に窮した。そこで、彼女は借金のかたとして、妓楼に預けられる。董竹君はその当時、職場では決して笑うことはなかったそうだ。そこで「笑わない娘」と呼ばれたこともある。しかし、彼女には歌の才能があった。その美声に多くの客は魅了された。いつの間にか妓楼のトップスターになる。しかし、裏社会との繋がりのあるこの業界では、人気が出てくるとなかなかやめさせてもらえない。それどころか、ますます仕事はハードになる一方だ。
 1911年に辛亥革命が勃発する。当時、四馬路と呼ばれていた福州路(写真)は、上海でも有名な今で言うような「風俗街」でもあった。革命に加担した人々は、身の安全のためにこの四馬路で秘密の会議を繰り返す。そこで、董竹君は夏之時とめぐり会う。夏之時は日本での留学経験もあり、四川省副都督をつとめていたほか、辛亥革命では総指揮を担当していた。彼女の美貌と声に惹きつけられた夏之時は、董竹君と次第に深い関係になっていく。  袁世凱が懸賞金でもって夏之時を捕まえようとするときにも、董竹君は秘かに日本租界地の旅館に隠れている夏之時を訪れていたという。そして、董竹君は夏之時のもとへ行く決心をする。その時の条件は、「1.浮気をしない。2.日本に行くと勉強したい。3.日本から帰ってくると円満な家族を形成して、夏之時は国のことを、董竹君は家事に専念する。」ということだったらしい。しかし、妓楼出身の彼女と革命党の夏之時が一緒になることに関しては、周りの反対も多かった。このとき、夏之時27歳で董竹君15歳。
 その後、2人は結婚し日本へ渡る。日本には6年ほど滞在していたようだ。この2人にとっては最も幸せな家庭生活を送っていた。ところが夏之時の父親が危篤になり、子供をつれて四川へ戻る。すでに、このころ中国は軍閥が暗躍し、国は乱れていた。さらに夏之時が軍の地位から突然解かれ、徐々にマージャンとアヘンにのまれていく。一方で、メキメキと力量を発揮し、社会的にも有名になってくる董竹君を夏之時はけむたく思うようになる。

5人目にして始めて男児が生まれる。その結果、夏之時の男尊女卑の思想がますます酷くなる。夏之時は4人の娘には教育さえも受けさせなかったほどだ。そこで、董竹君は4人の娘を連れて、四川を飛び出し上海へもどる。地元の名士だった二人のこのエピソードは当時、新聞にも掲載されるほどのニュースになった。そして、上海の復興公園(写真)で再び再開、もし5年後に2人の考え方に変化が無ければ離婚しようと2人で話し合う。

 今まで、かなり豊かな生活をしていた董竹君だが、これからは4人の子供と生活がかかっている。そこで、彼女は必死で働いた。まず、幼馴染の友達と紡績機器関連の工場を開く。子供を寄宿学校に預け、日夜関係なく働いた。おかげて、華僑などからの援助などもあり工場を順調に大きくできるだろう・・・・、とその矢先に戦争が勃発し、空襲で閘北にあった工場は破壊される。

 5年後、2人は離婚を決意する。しかし、時を前後して董竹君の父親も死去する。その時、友人たちの援助もあり、ついにレストランを開くことを決心をする。1953年3月、錦江川菜館がいまの寧海西路にOPENしたのだった。レストランはその周到なサービスと味で瞬く間に繁盛する。政治家から芸能人まで多くの客が訪れたという。その名声から、一時は虹口区の日本人旅館に分店を出さないかと声がかかったこともあった

 しかし、上海は情勢がますます悪化し、董竹君はフィリッピンへ脱出する。異国の地で「錦江」の分店を作る予定もしていた。しかし太平洋戦争が勃発し、それどころではなくなる。マニラで細々と商売をしながら、上海へもどって錦江飯店を復活させるチャンスを探していた。1945年1月、日本の赤十字の船にのって上海に帰還することに成功する。

 戦後、上海が解放されると、上海市政府は貴賓などを招待するホテルを急きょ作る必要があり、その準備を進めていた。そんな時、当時の副市長の潘漢年と上海市公安局長の楊帆が董竹君を推薦し、1951年ついに董竹君の錦江川菜館とその系列の錦江茶室が、いまの錦江飯店の建物である華懋公寓に入った。董竹君は董事長兼総経理となり、ここに錦江飯店ができた。

 董竹君は「文化大革命」のときに迫害を受けるなど、一時錦江飯店を追い出されているが、1990年には錦江飯店の高級顧問として迎え入れられている。その後、董竹君は1998年に北京で死去した。しかし彼女の残した「錦江」の名前と、そのホテルは今も多くの利用者でにぎわっている。

参考文献:三閑著 『上海紅顔往事』 ハルビン出版社:陳縦周・章明著 『上海近代史建築史稿』上海市民用建築設計院:『百年上海灘』上海灘雑誌社

◆豆知識◆

 錦江飯店の後ろには、円筒形の「新錦江飯店」がそびえている。80年代末に建築されたこのホテル、今でこそ珍しくないが、カーテンウオールのビルが人目をひいた。さらに、最上階の42階の円筒形のビュッフェで270元+15%サービス料というバイキングが注目を集めた。当時としては破格だった。また、上海で数少ないサーモンの刺身が食べられるバイキングでもあったのだ。私も90年中ごろに上海に来たときに、ここで生ものが食べられたことに感動したものだった。さらに1990年には上海で始めての部屋貸し切りタイプのKTVがOPENし、ここに「第1代世代」の「カラオケ小姐」が誕生したのであった。何かと話題の多いホテルでもある。

(文・写真 山之内 淳中医ドットコム


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錦江飯店

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