FEATURE

特別対談(第一回目)!
 KONOK v.s. 木之内先生 (「上海歴史ガイドマップ」編著)

中国大陸にありながら、他の都市とは少し違っている街"上海"。一つの通りや建物が、イギリス、アメリカ、中国と時を越えて、我々に話し掛けてくるものは何なのか?この秋、上海ノスタルジーに浸ってみたいなら「上海歴史ガイドマップ」必読の一冊です。

Ko:konok(コノック)
木:木之内先生

Ko:はじめましてよろしくお願いします。

木:よろしくお願いします。

Ko:『上海歴史ガイドマップ』拝見させていただきましたが、素晴らしい本ですね。建造物や地名からここまで上海史の謎解きができるとは正直驚きました。

木:ありがとうございます。自分でも「こんな本があればいいな」と思っていた本をまさか自分が編集するとは思ってもいませんでした。

Ko:内容からして製作にはかなりの時間を割かれたでしょうが、これまで上海にはどのくらいいらっしゃっているのでしょうか?

木:上海に来た回数で言えば、今回で留学の2年間を含めると11回目になると思います。最初に上海を訪れたのが、82年になりますので、足掛け18年で10回程度ですので、決して多くはないですね。ただその間83年から2年間留学(復旦大学)を経験しています。

Ko:私が6年(上海歴)ですので、私の方が上海歴は長いわけですが、この地図を見る限りではそんな短期間にこの地図を作成したとは思えませんね。きっと上海に対する思い入れは長いのかも知れませんね。

木:そうですね(笑)、とはいっても82年の最初の上海から留学の終わる半年前くらいまではそうではなかったんです。どちらかと言えば中国の長距離列車旅行などに夢中になっていました。それが留学終了を迎える半年前くらいから上海を去る名残惜しさからカメラを抱え、街を徘徊しては租界時代の建築や路地裏を撮影するようになりました。そんな中で「ああ、こんな地図があれば・・・」という発想の中から生まれたのがこの地図なんです。その後その当時撮影した五百枚を越える写真を小樽の大学官舎の部屋で整理したり、上海の歴史的な建物のデータベースを作ってみたりするなかでこの地図を作成していきました。結果、初版がでたのが99年6月ですから、先ほど言われた「上海への思い入れ」という意味では、確かに15年を越える歳月になるのかもしれません。写真を撮りはじめた当時は、とにかく上海の街に圧倒されました。まだ80年代の前半というのは租界時代の建物がほとんど残っていました。ビルとビルの狭い空間などの空気が淀んでおり、暗闇に浮かぶ路地裏の水溜りなど見ていると、「ここは50年60年前も同じように水溜りだったのか」と思わせるほど非常に想像をかきたてられました。確かに上海だけを見てここはどんな街だ判断することはできないのですが、当時ヨーロッパの留学生なども「こんなデカダンスな街は世界中にもないよ」とも言っていまし、そんなデカダンスな街を自分なりに楽しみたいと思っていました。

Ko:今でもデカダンスな魅力をいつまでも持ちつづけているのが上海ですね。

木:そうかもしれません。何か引力に似た力が私たちを引きつけていますよ。

Ko:当時から考えるとその魅力が上海を「魔都」に変えていったのでしょう。そしてその魅力は80年代でも路地裏に隠れていたのですね。

木:当時はそんな路地裏が街に溢れていましたので、それを日本に帰っても楽しみたいというのがこの本を作る原動力(思い入れ)なのだと思います。

Ko:やはりそうですよね。私などまだ上海に対する思い入れは2年に満たないと思いますが、先生が先ほどおっしゃっていた名残惜しさという感覚はとてもよく分かります。私も最初に降り立った外国が中国であり上海です。91年9月でしたがとにかくひどかった。まだ街に馬車が走り、街中に石炭と油の匂いが混じった匂いが立ち込めていました。それからわずか数年で上海は変わりました。これは本当に凄いです。自分では「上海スピード」(この半世紀間に世界で最も大きくその変貌を遂げたであろう街)と呼んでいるのですが、まさに街全体が揺さぶられるような変貌ぶりです。例えば90年といえば浦東開発区の陸家ズイの辺りなどその当時はまだ近郊農業をやっていましたよ。浦西も同じく現在虹橋開発区のフランス系スーパーマーケット「家楽富」の辺りは一面見渡すことができまし、たしか数階建てのマンションから今の上海体育館(徐家匯)が見えました。それからこれがこの変わりようですからとにかく目が離せないんですこの街は・・・。

木:おっしゃる通りだと思います。私が来た82年なんかも現在のように30階を越える高層建物などほとんどありませんでした。唯一高いといえば「国際飯店」(旧・パークホテル、)でしたでしょうか。L・ヒューデック設計という上海派アーキテクトではパーマー&ターナーと肩を並べる建築家が、東洋のスカイクレーパーとしてアールデコ建築方式を用いて1933年に竣工したのですが、3階までの外壁には黒色花崗岩を用い、中上層にはこげ茶色の化粧タイル、上層部はセットバックして尖塔状をしています。内装でも各部屋に当時では珍しい自動消火装置を配置し、飲料水は地下674フィートからくみ上げたといいますから、その当時の最先端の技術を用いて作られたのでしょう。完成後は地上22階、地下2階の83.3mの高さを誇るこのホテルは当時としては素晴らしかったと思います。完工から60年代半ばまで極東一の高さを誇っていて、確か霞ヶ関ビルの完成によって順位が入れ替わったと聞いたことがありますから、半世紀近くまちがいなく東洋一の高さのビルだったのですね。

Ko:ということは一時的にもビルの高さで一位が「霞ヶ関ビル」(東京)で、2位が「国際飯店」(上海)!?ということがあったのですね。(笑)

木:そうらしいですね(笑)。ですから私がはじめて上海に訪れた当時はどこからもこの「国際飯店」が見えたんです。その後1985年に上海初の高層ビルとして高さ107m、30階建ての「聯誼大廈」ができました。本書の裏表紙になっている写真をよくご覧になっていただくと分かると思うのですが、写真の左端に「聯誼大廈」が見えるんです。写真の色はセピア色に着色してありますが、写真自体は85年夏に撮影したものです。この写真からも80年代半ばをすぎても際立って高い建築が無かったことが分かってもらえると思います。

Ko:今では上海は、20階以上のいわゆる高層ビルといわれるビル数が世界一だという話も聞きますから、そういう意味ではここ数年で世界的にも例を見ない変化を遂げたことになりますね。ここまでだと外向きの説明でかっこいいのですが、実際住んでいる住民にとってはたまりませんでした。わずか数年でビル群を建設する、とにかく街が棚を返したようにグチャグチャなんです。毎日ホコリと騒音との戦いでした。コンタクトレンズは、ソフトやハード関係なく使えませんし、私の場合は騒音が耳から離れなくなりノイローゼになるのではないかと思っていました。

木:そうですね。これらビルの建築のために上海人の民家など多くの建物が壊されて、立ち退きが行われました。民家ではないのですが、上海のシンボルでもある外灘周辺の建物の中にも壊されたものもあります。租界時代の建築物が多く並ぶ外灘を「外白渡橋」(旧・ガーデンブリッジ)を外灘から虹口地区を渡った右脇に「海鴎飯店」があります。現在は外灘を一望できるレストランとして有名ですが、建設前の1984年頃まではそこにアメリカ領事館とドイツ領事館があったんです。保存されていれば現在の外灘の景色は更に素晴らしいものになっていたと思います。それ以外も多くの歴史的建造物が、再開発のなかで壊されていきました。残念なことです。

第二回目に続く
 
木之内 誠(きのうち まこと)
東京都立大学人文学部助教授。中国文学専攻。『上海歴史ガイドマップ』編著。また翻訳に『魯迅全集 日記』(共訳 学習研究社)がある。最近は中国の「対聯」について研究や上海歴史ガイドマップの改訂作業と公私ともに多忙を極める。

Konok(コノック):
中国歴10年、上海歴6年。上海の下町ウォッチャー。SHEX、上海ウォーカーなどに上海雑知を連載、最近はテーマである「上海のあやしい○○…」が街からめっきり少なくなり、街探索もさぼり気味。


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