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Root No.14
白堤路
・科貿街
・ファーストフード激戦地
・李純祠堂

前回の「人民公園」が思いのほか好評をいただき、よし今回も!と気合いを入れて行ってきました。が、気合いを入れ過ぎるとズッコケルというのは世の常、人の常でございます。第14回「白堤路」編は、紅白歌合戦の後のゆく年くる年のような感じで、ほどほどにお楽しみください。

科貿街

白堤路は南開区のほぼ中央を南北に走る大通りで、南は外環線につながる復康路と交わり、北は南京路につながる長江道と接しています。白堤路のちょうど中間地点で鞍山西道が横切っています。

鞍山西道以南の白堤路沿い一帯は現在“科貿街”という名で呼ばれいます。“科貿”とは科学技術と貿易の略。すでにコンピュータ街として知られる鞍山西道と併せてこの辺り一帯を天津の“中関村”にしようという動きがあるのです。この辺りはもともと南開大学のキャンパスの一部で、ITやバイオテクノロジー関係の様々な研究施設がありアカデミックな雰囲気を漂わせていますが、今後は天津の“科貿”を支える重点エリアとして活気付いていくと思われます。

今回は白堤路の南の端である復康路との交差点から北へ向かって歩いてみましたが、鞍山西道の交差点に差し掛かるまで、ここもあそこも、右も左も、研究所のオンパレードでした。中にはちょっとユニークな研究所(?)もありましたので、ここでちょっと紹介しようと思います。


まず筆頭は「天津市農業科学院」
きっと農業の権威たちが集まっているのでしょう


そして「蔬菜(野菜)研究所」
いろいろな野菜について広範囲に研究しています
マンション1階のテナントを借りているように見えます


その向かいに「黄瓜(胡瓜)研究所」
蔬菜研究所とは違って、堂々たる構えです
なにゆえキュウリだけ特別扱いなんでしょうか


お次はちょっと分かりにくいですが「天津市園芸学会」
園芸を学術的に研究していらっしゃいます
なお、手前のスイカ売りは関係ありません


園芸学会の近くに「航天酒家」というレストランがありました
「野生食用菌大全」という看板がすごく気になります
いろんなきのこが食べられる、ということでしょうか?
「大全」という学術的な響きが食欲を…そそりません


現在建設中の、「南開大学MBA中心大厦」
立派な建物が建ちそうです


その隣には「APEC大楼」
アジア太平洋…展望するスケールが違います


研究所とは関係ありませんが、「大方便利」
天津で数少ない24時間営業のコンビニです


こちらも研究所とは全く関係ありませんが
昨年イラストで紹介したガッチャマンスタイル実写版です

「私事で恐縮ですが・・・」

ファーストフード激戦地

鞍山西道との交差点に差し掛かると、白堤路はアカデミックな雰囲気をガラリと変えて、ファーストフード店の建ち並ぶにぎやかな様相を呈してきます。白堤路北部は天津有数のファーストフード激戦地。この辺りではマクドナルドやケンタッキーをはじめ様々な外食産業がしのぎを削っています。


交差点の角にどっしり構える「マクドナルド」
怖い顔のドナルドおじさんも健在です


マクドナルドのそばに必ず「ケンタッキー」
カーネルおじさんが斜め向かいのドナルドおじさんに
鋭い視線を送り続けています


マクドナルドの隣は中国系のファーストフード店「家家香」
天津人に人気なのはやっぱり中華料理です


さらにその隣の店にご注目。
角張った「M」のマークはどこかで見たような…
「麦考利」(マッコリー?)というケーキ屋さんです
マクドナルドの近くで堂々とこんなマークを
掲げるなんて、いい度胸してます

「最近あまりの暑さで」

李純祠堂

南は科学貿易、北はファーストフードと、観光とは程遠いように思える白堤路にも実は立派な史跡があります。「李純祠堂」、読んで字の如く李純(1874〜1920)という人を祭っている祠(ほこら)です。白堤路北部の西側に位置し、現在は「南開人民文化宮」という名で保存されています。

李純は天津出身の北洋軍閥の一員で、天津武備学堂(兵学校)で学んだ後、袁世凱の軍隊の訓練指導を担当し、1913年には江西都督(軍事長官)、17年には江蘇督軍(同じく軍事長官、都督の後の名称)に就任しました。任期中は苛斂誅求して財を成し、北京と天津各地に土地を持ち、天津の屋敷は当時天津では最大級だったそうです。順風満帆のように見えた李純ですが、1920年10月、46歳の若さで突然命を絶ちます。政府筋の発表によれば、“憂国憂民”──国を憂え、民を憂えて自殺したのだそうですが、一説には妻の不倫相手に殺されたとも。後者が事実なら李純の最期はあまりに無残で同情してしまいます。李純が憂えたのは国でも民でもなく、妻だったのかもしれません。

李純祠堂の建立は1923年ですが、着工は13年で、実に10年の月日をかけて造られています。当時李純が北京にあった明代の大宦官の旧宅を20万元で買い取り、その建材を解体して天津まで運び込んで建てたのです。李純祠堂の敷地面積は2.56万平方メートル、うち建築面積は6000平方メートル。前方には3つの庭、後方には花園があり、建物は大門、前殿、中殿、後殿、配殿および回廊によって構成されています。故宮を彷彿とさせる造りで、天津では“小故宮”と呼ばれていたそうです。雄壮偉大な建物の完成を見ることなくこの世を去ってしまった李純、またしても無念…。

中華人民共和国成立後の1958年、李純祠堂は人民政府によって修築工事が進められ、60年に竣工、同時に「南開人民文化宮」と名前を変えました。また修築の際、1200人の観衆を収容できる劇場も造られ、京劇の名役者・梅蘭芳(メイ・ランファン)もこの舞台に立ったと言われています。その後、81年に再び修築工事が行われ、翌82年に「天津市文物保護単位」の指定を受け、今日に至っています。

李純祠堂は現在閉鎖中で、残念ながら中の様子を伺うことはできません。


前庭は荒れ放題…


門は閉ざされたまま…

このようにさびれてしまっている李純祠堂ですが、
おじいちゃんが将棋をさしたり、おばさんが散歩したりと
地域住民の憩いの広場として役に立っているようです。
武術教室も開かれていて、私が訪れたこの日も
子どもたちが一生懸命武術の練習に励んでいました。


けっこう様になっています


ちなみに、手前の水色のパンツの少年は
ずっと寝転がったままです

「我が家のルータから異臭がします」

次回は稲川淳二の怪談スペシャル…じゃなくて、「賓水道」を歩きます。
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Illust & Text by KEYOU... http://keyou.at.infoseek.co.jp/

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