そんな上海を記録に納めるため租界探索をしていきます。
第一回目として、かつて日本人に“虹口(ホンキュウ)”と呼ばれ親しまれた四川北路と虹口区を探索地区に選びました。 案内人は上海市虹口区政府外事事務室の田根華氏です。
2001年11月8日(土)に行われた租界探索は、魯迅公園前の「天鵝賓館」から四川北路を中心に虹口区の共同租界を、最終目的地「旧日本総領事館」まで探索しました。
前編は天鵝賓館から横浜橋まで、後編は横浜橋から旧日本総領事館までを掲載します。
魯迅公園
1896年に租界義勇隊の射撃練習場を設けたことに始まる。
以前は「新公園」と呼ばれていたが、1988年に「魯迅公園」と改称された。
停馬所
魯迅公園脇の甜愛路にあるかつての停馬所
かつて魯迅公園は、射撃練習場であった。建物の脇にあるコンクリートの支柱は、当時軍馬を結びつけて置くもであった。
魯迅故居
1933年4月、魯迅は内山書店店員の名義でラモスアパートから大陸新邨転居。 ここで生涯最後の3年間を過ごす。
大陸新邨 1931年に大陸銀行上海信託部が投資して建てた赤煉瓦3階建てのテラスハウス住宅。
調度品はもちろんのこと、建材もヨーロッパから輸入された。
瞿秋白寓所 早期、共産党指導者の一人、左翼文化運動家。 日本人を主な借り手として建てられた3階建て集合住宅。
瞿秋白夫妻のために魯迅が内山完造に頼んで借りていたもの。南側の2階の部屋に住んでいた。
上の写真・左は、かつての住人(日本人)から現在の住人(中国人)に宛てられた手紙。内容は、昔の生活ぶりをなつかしむことと、現在の様子を尋ねる。
内山書店旧址
大学目薬の営業員だった内山完造が1917年に開いた書店。初めはキリスト教関係の書籍のみを扱い、妻の美喜子が一人で店を管理していたが次第に営業を拡大した。
1929年にもともとは四川北路魏盛里にあったものからここに移転した。魯迅が書籍を購入し内山との交際が始まった記念すべき書店。彼、内山完造の住居はすぐこの裏手にあった。
陸戦隊本部
上海陸戦隊は、居留民保護を名目に上海に駐留した日本海軍陸上戦闘部隊。1900年の北清事変を機に情勢緊迫の折にたびたび上海に上陸し警戒にあたった。
1929年鉄筋コンクリート造4階建てのビルを建てる。1932、37年の事変の際にはここから出撃して中国軍と市街戦を展開した。現在は軍機関のほか通りは銀行、商店が使用している。
知恩院
1924年建造のイスラムスタイルの建築。細かい細部の彫刻や支柱で支えられるアーケード式のベランダ、鮮やかなアラビアタイル張りの壁が美しい。
多倫路文化名人街
以前はこの通りに毎日市がたった。 道を改修し現在はモダンな通りに変身し、おしゃれなカフェやレストランが並ぶ。
通りには、過去に活躍した偉人たちの像が両脇に飾られている。
金子光晴寓所(余慶坊123号)
詩人金子光晴とその妻が住んだ下宿屋。
当時の外観がそのまま残されている。
福民病院
1924年に日本人医師・頓宮(とんぐう)寛が開いた総合病院。日本語が流暢な魯迅が親戚や知人が診察を受けるとき通訳をしていた。魯迅の妻許広平も1929年にここで出産している。
新中国成立後は、閘北水電公司あとなどと併せて施設を拡張。
北部小学校
1907年居留民団の小学校として創立。 1917年鉄筋4階建の新校舎が落成。 窓が多く採光がよく、重厚な石造りでバランスのいい建物。
上海歌舞伎座
ワトソンの清涼水工場を改造して1924年開場。当初の名は上海園芸館。 階上400席、階下 600席の花道付き純日本式劇場。その後アメリカ軍の爆撃により使用不可となるが1947年改装されて永安大戯劇院となる。
1997年完全に取り壊されアミューズメントビルとして生まれ変わる。
虹七百美食世界
お昼を食べる所を探していたら思いがけず発見。 熊猫亭西餐と哲平日本料理は開店したばかり。オムライス、ハンバーグ、ロールキャベツなどが手ごろな価格で楽しめる。 昼の洋定食12元、ラーメン10元からなど
横浜橋
横浜と聞いて日本の横浜を想像する人がいるが違う。横浜の“浜”は水路の意味で“濱”とは別字となる。
以前は汚染がひどかったが現在は改善されつつある。
次回は、横浜橋から旧日本総領事館をお伝えします。後編へ続く>
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